最強の若返りサプリメントはこれしかない

一番のクスリはプラシーボ

これにまさるものはありません。

悪いものを食べた時にプラシーボがまさるというほどのことではないと思いますが

それ以外では、最強

 

この化粧水はあの人もこの人も使っていてすごいって。という話をきいて、即買い。翌日にはピッカピカの人がいます

同じものを使っても、何も変化がない人がいます。

このことが何をあらわしているのでしょうか

あまりにも明白です

みんな、気のせい。

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肘の痛みが治らない

肘が痛いの!!

右の肘が痛いのである

 

原因はおそらく、何度かひどくぶつけたから。ドアとか、浴槽のフチとかに。

ほとんど同じ場所(肘の外側)を何度も、いろいろな場所に。去年の12月だったと思う。

ぶつけてしばらくはそれなりに痛んだのだが、数時間または数日で軽快したはず(と思われる)。ところが、いきなりの2月初旬に、痛くて、もろもろの活動が出来ないレベルに。

 

そう言えば、1月半ばからぼんやりと、何となくすっきりしない感じで痛いなとは感じていたのだが、週一で通ってる鍼灸の先生にも敢えて言う必要がない位の、どうということのないレベルだったはず。はず。

なのに。

ティーカップが痛くて持てない。と言うか、普通に持ち上げたとたんに激痛が走って、もう少しで下にいた猫さんに熱いお茶をぶちまける所だった。

字が書けない。肘が痛くて。同じ理由で化粧筆も使えない。包丁も使えない。

掃除機は不可能的。キーボード操作を無理して1時間ほどした所、立っていられないほどの痛さに。ホッチキスが使えない。あと些細な所では、リップクリームのキャップが外せない。その割には、大きな荷物を両手で持つ、とかは平気。動き始めると平気なのかも。で、バレエに行って、そのあと、ピラティスに行って、終わった後、直接肘を使ったわけではないのにものすごく痛い。

一番激烈な痛みの時は、何もしなくても痛かった。ドラッグストアで、塗る痛み止めを購入しようとしたのだが、店員さんが全員忙しそうで買えず断念。せめてサポーターが欲しかったのだが。

さらにその翌日、どうしたことか、首から肩にかけてまでも痛くなり、夕方ごろ(一日の仕事が終わろうとする頃)には頭がどんどん痛くなってきた。

で、お馴染み鍼灸の先生に行ったところ、ほぐしてもらってわかったのは、原発は肘であっても、痛みはどんどん拡散していき、そのために拡散した先で筋肉が硬直し血流が悪くなりそこからのフィードバックを受けてさらに肘の具合が悪くなるのでは、ということ。

拡散した先の、指先とか肩、肩甲骨の内側、首などに施術を受け、一気に楽に。(肘以外の場所)

激しい頭痛がその先に予想されたのにも関わらず、瀬戸際で食い止めた感があった。ま、肘は痛いのだが。

そんな感じではや、1か月が経過。

何もしない数時間があると、(電車で遠方に行く、とか、何かの相談員として4、5時間座ってるとか)劇的に痛みは軽減する。そのまま治ってしまうのかと錯覚するほどだ。

しかーし、油断してコップを右手だけで持ち上げたりすると、まだまだ激痛が走る。そして、一番困るのは、睡眠時のこと。

たぶん、腕を身体にまっすぐ沿わせて上を向いて寝ているため、肘の問題の個所がずっとベッドに押し付けられているのではなかろうか。目覚ましが鳴るよりも前にずきずきする痛みが私を覚醒させる。肘から先が痛みの塊のようだ。

 

痛みは治せばいいといいのは、間違い、という説がある。

必要があって、痛みを伝えているのだから、痛みだけをとってしまうのは危険ということ。元が治ってないという意味だろう。

必要があって、痛いのであるから、いつまでも痛いということは、まだ、治る時期ではないということ、らしい。

ここから得るべき学びは何ですか。ワタシにはまだ、わかってない。

 

そして、自然治癒的に治ったとき、その部分だけではなくて、同時に他の問題個所も同時多発的に治ることになるらしい。

治らないときは、治さないのが良いのだ。

因みに、整形外科に行かないのは、どこに行ったらよいかわからないからである。評判のよいところは混んでいるし、空いているところは、こちらも心配である。

打撲が原因だとしたら、痛みが治まるまで数か月、という話もよく聞くので、整形外科では、たぶん、痛み止めとシップをくれるくらいで、本当の意味での治療はしてくれないのではないか。ものすごい偏見ではあるが。

で、ネットで、「肘の痛みがスピリチュアル的にどういう意味を持ってるのか」を調べたところ、

頑固であるとか、柔軟性を欠く、新しいことに進むべきなのに進んでいない、

変化のタイミングであるのに、転換を恐れている、など。

 

いい感じと言えばいい感じである。

肘が、関節であるという意識があまりなかった!

手首とか膝は関節だという認識が確かにあるのだが、肘は、関節というよりは、腕の中間部。

腕というか、ここまで書いて発見なのだが、

指及び手については、しっかり意識が届いているのだが、なんと、手首から肩までのいわゆる腕については、存在感がないというか、普段、そのようなパーツがあることをほとんど意識していない。

せいぜい袖のある服を着るときに、長さが問題になるくらいで、自分の肉体の一部なのに、重要感、ゼロ、である。

ここまで蔑ろにされているパーツが他にあるだろうか。いいや、ありはしない。

 

このようにご自愛が不足していると、その場所が自己主張してくるというのは、よく聞く話だ。

ここまでキーボードで書いてきて、昨日までなら既に我慢できないくらいに肘が痛んでいるはずなのに、おや、随分、痛みが和らいでいるような。

劇的な改善かもしれない。

でも、スピリチュアル的な意味を探っていた時に、このタイミングで、

都内にそんなことを診断治療してくれる治療院を発見した。

だが、この感じだと、もう既に治癒に向かっているのでは?

 

今更この状態で、もはや治療院は必要ないのでは?と瞬間思ったが、

即、予約である。

Loveですよ、love ご自愛バンザイ!

 

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名前を教えて

名前を教えて

 

 

既に若葉の季節

うす緑色に輝く葉をさんざめかせているのは、なんという名前の木なのか

名前が知りたい

 

図鑑で見てもわからない

似ている木が、たくさんあるから

 

よく知ってる誰かに聞くのが最良の道なのだが

 

父ならば知っていたはず

3年前に亡くなった父ならば

 

母ならば知っていたはず

痴呆でさえなかったなら 教えてもらえただろうに

 

植物園で、名札を確認するとか

 

名前が知りたい

その方がもっと、その木を愛せるような気がする

 

欅(けやき)に似ている、汝の名は?

夢で現れて教えてくれてもいい。

 

汝の名は?

もっと好きになりたいから

名前を教えて

 

青空にすっくりと立って

初夏の輝きに満ちて

私を天空に誘う

 

あなたの名前を知りたい

 

love

 

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優秀な人はどこまで優秀なのか、と驚嘆するの巻

優秀な人はどこまで優秀なのかと驚嘆し、自分もそうなりたいと強く思った件

 

新しい仕事のようなもの、の関係で、研修会というか勉強会に出席した時のことである。

主催するのは私よりもかなり若い男の人で、彼が問題を出し、出席者が指名されて答えていき、彼がそれについて講義をする、という感じで進んでいったのだが。

何となくゆるい感じで、このような「硬い場」(これは私の偏見)というよりも、例えば、新年会の相談という感じ。

日時だけは決まっているけど、さて、場所や予算はどうしよう。それぞれに関心はあるのだが、そこまで責任重大ではないにしてもまずは結論を出さねばという少しのプレッシャーというか。そんなゆるい感じ。

当初覚悟していたほど厳しい場ではないと感じた理由だが、

まず考えたのが、

こちらは全くの初心者であるので(自慢!)まさか指名はされることないだろうと油断していたことが大きい。

そして当日の、緊張して腰が砕けそうな自分を落ち着かせるために「たっぷり恥をかかせていただきます、」という心構えに至っていたため、本当に肩の力が抜けていたのかもしれない。

 

一対一で質疑応答のやり取りをしている時に、はたから見てると明らかなのに当事者だけに見えてないということがよくあると思うのだが。

彼はまるで第三者のごとくに自分の参加する会話を俯瞰していた。

当人が十全には言葉にできていない意図を汲みあげ、瞬時にバックトラックして返し、のみならず他の参加者(特にたぶん初参加の私たち)にもわかるように説明する。

只者ではない。

いや、実際に只者ではない優秀な人であろうとその経歴から想像してはいたのだが、これほどとは。

 

彼の軽妙な語りに笑わされているうちに私の番が来て、

こちらの回りくどい回答(瞬間的に考えをまとめるのが苦手で、普通の人にはおそらく意味不明なはず)をたちどころに解きほぐし、

まだしっかりと言語化さえできてなかった気持ちに形を与えてきちんとした日本語にしてくれた。

私の「・・みたいな、‥的な・・な風な、感じで・・」という意見、だったとは思えないきちんとした日本語。。。それを私の頭の中から引っ張り出し、言語化して段落分け、あり得ない。。凄すぎる。。。

 

あっという間に時間となり、気付けば参加者全員が発言し、全員がリラックスしていた。

彼は全員の名前と顔を覚えている。

私も名乗ったので、次回はおそらく名前で呼んでくれるのだろう。

他の出席者ともそれほど密な間柄ではないであろうに、恐るべし。

 

で、帰り道にようやく理解したのだが、

初参加の私がその「場」をゆるい、と感じたのは、

彼がそのように、その「場」を創っていたからである。

全員で作り上げるのが場なのだが、彼、主催者がそのような意図をもって臨んだからこそ、のリラックスした勉強会が出来上がっていたのだ。

たとえ参加者がどんなにリラックスした会にしようと目論んだところで、

主催者というか、話し手がガチガチに緊張してたり、上から目線で高圧的だったり、私は優秀です的なものをチラつかせていたら、

あのような「場」は創造されなかったであろう。

全くもって恐るべしである。

あれほどに若いのに、心には果てしない宇宙のような愛を持っている。

おまけに、あれほどに頭も良いのだ!

 

やっぱり、何といってもLoveですよ、love

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究極のアンチエイジングについての考察

究極のアンチエイジングについて考察する。

 1 まず病気をしないこと

これが第一歩にして、ゴールかもしれない。

 

かつて、面倒な病気のために一気に老け込み、

未だその時の病気による老化から回復できずにいるうちに、あれよあれよという間に、外見に年齢がマッチしてきてしまった。

ともかく、病気をすると一気に数十歳も年をとるのだ。

だから、女っぷりのいい40代とか50代とかいわゆる女ざかりの艶やかな時代

というものが、私にはなかったように思う。

昨今の、はつらつとして輝いているその年代の女の人たちを見ると、心から、

うらやましく思い、きれいだなあ、とため息をつくばかり。

 

だから、大人になってからというか30歳を過ぎてから難しい病気をした人にとっては言うまでもないことではあるのだが、

そんな経験のない人たちのために書く。

 

病気をしただけで、

その病気と闘うために、

そして、心身ともに回復していくために、

ものすごいエネルギーを使うのだ。

 

朝起きて、ベッドから降りて、窓を開ける、シーツと枕カバーをはがす、階段を降りる、猫を抱き上げて、機嫌をとる、やかんに水をくんで、お湯をわかす、紅茶を入れる、椅子に腰かけてメールをチェックしつつティ-マグを傾ける

以上の、ほぼ5分で出来るはずのことが、

途方もない時間を費やさないと出来ないといえば、

その消耗の激しさがわかるだろうか。

 

ま、上記の朝の儀式で1時間くらい。それも集中して行った場合である。

これらの合間に、不安とか恐怖とか迷い、時々の希望の煌めき、

そんなようなものと戯れる。

動きをとめたまま(動くのは辛かったりするので)白とグレーと漆黒、そして時々カラフルな意識の流れの中で呆然と立ち止まる。

30分位はあっと言う間である。

もう少し具体的にいこう。

 

・老けて見える

外見の衰えは内面の消耗と正比例。解説するまでもない。

入院やら手術などでの数日間にわたる食事コントロール(断食または流動食)で

栄養もカロリーも足りてないので体重はあっと言う間に4、5キロマイナス。

 

貴重な筋肉。貴重な脂肪。。。

十代、二十代のぴちぴち時代ならばいざ知らず、中年期にあっては、この4、5キロは何よりも大事であった。

一気に10歳以上老ける。

たるみ、皺、筋、そして実際に肉体的に辛いので(術後の消耗、痛み)

姿勢も猫背で骨盤後傾、お婆さんみたい。ふらふら歩く。

 

・老けて感じる

内面の衰えも大変なものである。

なにより、これまでの健康法というか、生活習慣に対し、

一気に自信がなくなるわけだ。

どこが間違っていたのかというよりも、よく考えてみれば、

このような生活習慣にもかかわらずこの年まで元気だったことの方が驚きに値する。

 

しかしそれは慰めにもならない。

心の底から、がっかりする。

希望が失くなる。

 

世界最強ストロングメンタルなどと、どのくちが言っていたのか、と呆然とする。

ほとんど呆然唖然としたまま時間が過ぎていくのだが、

今にして思えば、その時間に心が癒えていったのだ。

が、当時はそんなこととは知らず、ふと気づくと30分一時間が経過していて、

そんなにもショックだったのかと人ごとのように感じていただけだ。

 

また、呆然としていないときは、

これからどうなるどうする、という、お決まりの不安感と付き合う。

考えれば考えるほど不安というものは増大していくものだということを知る。

だが、考えないようにしようとしても考えなければいけない事は山のようにある、

ような気がする。

 

実際に考えていることは、大したことではない。治るのか。元通りの身体になれるのか。再発は必ずすると言われているが、それはいつなのか。そうしたら、またこのように摘出手術を受ける以外に手はないのか。こんな風で自営の仕事は続けていけるのか。高校生の息子はどうなるのか、仕事をやめたら、生活費はどのように工面するのか、なにやらかにやら、、、

でも救いは、長い時間は不安と向き合っていられないということだ。

ふと気づくと、弛緩しつつ呆然としていたから。

ともかく、建設的なことは考えられなかったように記憶する。

そして、今では全く読まないのだが、サイコスリラー系のミステリーを多読した。

それらを読んでいる時だけは、心から没頭していられたので、

弛緩しつつ呆然とすることもなく、不安に駆られることもなかったから。

 

・老けて感じる

頭の衰えも甚だしいのだ。

実際に、病気のことを考える時間が増えるためワーキングメモリが減少する。

新しいことが憶えられない。

少し前のことも忘れてしまった。

説明するのが異常にのろく、下手になった。

考えていることが言葉にならない。いやむしろ、考えていることが何だったのか、

思い出せないこともあった。

 

早発性の痴呆?

脳の萎縮?

大量に投与された化学薬品の副作用か?

 

たぶん、全身麻酔の副作用だったのか。

全身麻酔によって、身体の細胞が元通りになるのに、約1年くらいかかるという話だ。

 

私は、最初の手術から5か月経過後に再び全身麻酔による手術を受けたので、

このダブルの浸食はきびしいものがあったと思われる。

 

実に2、3年くらい、頭わるい状態が続いた。

脳梗塞の後遺症で言葉が中々出てこない人に遭遇したが、この時の私に似ていたと思う。

 

2 心は元気でいること

たとえ病気や老化による体力の衰えを感じたとしても、

たぶん最初に衰えるのは肉体なのであって、心まで衰える必要はない。

 

しかしながら、多くの場合、肉体が病めば心も同じように病んでしまうのではないか。

同じように、肉体が衰えれば心だけ若くいるというのは至難の業と思われる。

 

心と肉体は互いにフィードバックを行ってると思う。

どちらかだけが、健康であったり、若くあったりするのは困難だ。不可能とは言わないが。

 

しかし、それでも、心まで病まない事だ。

心だけは老いないことだ。

 

気持ちの晴れる音楽を聴こう。宇宙の高みを覗ける瞑想をしよう。

力を振り絞って、投函する勇気がなくても最愛の人にラブレターを書こう。

 

健康な心が、必ず、健康な肉体を創造する。

心と身体が相互に補い合って元気が回復するのだと実感しているが、少なくても、心が先に元気になり、肉体を先導するのは間違いない。

身体の方は物理的に経年劣化は仕方がないのかもしれない。

だが、不食の人たちが存在する以上、不老の人の存在を否定するわけにはいかないだろう。

脳も同じように、経年劣化は否めないのかもしれない。

心が脳にあるとしたら、心も老化していくのだろうか。心は不老か。

 

老化

鮮度が落ちる。酸化する。温度が下がる。元気がなくなる。乾く。小さくなる。固くなる。黒っぽくなる。冷たくなる。動かなくなる。

だとしたら、だとしても、せめて、

心だけは、

フレッシュに。温かく。元気よく。しっとりと。広やかに。

やわらかく。透明に。熱く。溌溂と。

 

3 エネルギーを高く保とう。 

それが、私たちを動かしている大本(おおもと)である。

エネルギーを浪費せず、補給して、その質を高いものに保つことだ。

そのためには、心を鮮度よく保とう。体には筋肉をつけよう。

どこかしら痛くても、何とかして自分の力で動こう。

そうなる前にどんなに面倒でも、がんがん運動をするのだ。

そして、最強のエネルギー補給術は次のとおり

 

4 せめて人の役に立とう 

何ができても何もできなくても、一日一回でもよいから、人の役に立ちたい。

片頬の一瞬の微笑みであっても。

「いつも悪いね」、のぶっきらぼうな一言であっても。

それは誰かの力になる。

そして、それが自分のエネルギーになる。

エネルギーを放出することで、新しいエネルギーが獲得できる。

自分の僅かばかりの存在が誰かの助けになったと感じること。これ以上に、自分の心を強くする方法があるだろうか。

 

5 ご自愛を 

人の役にたち、天からのお役目を果たす、人に対して愛を実践するには、

自分に対しても愛を実践したいものだ。

 

自分の器に愛が十分に満ちていなければ、

愛を実践していくことなんてできないだろう。

 

10代、20代の頃は、別に自分の心や肉体の機嫌取りをしなくても、

がんがん動いてくれたものだ。

 

数日連続で徹夜で遊ぶとか、食事も休憩も満足に取らずに仕事を終わらせるとか、

食事代わりにブラックコーヒーとチョコレートとか、

 

自分に対して今ではとうてい考えられない乱暴狼藉を働いてきたものだ。

 

そのツケをこれから払わなければならない。

 

 

人を傷つける言動をする人からは距離を置く、

付き合いが悪いと非難されるかもしれないが。

 

苦手な人間関係からは潔く逃げる、

義理を欠くかもしれないが。

 

辛いことがあったら、腹を括って、7時頃からベッドに入ってたっぷり眠る。

かっこ悪いかもしれないが。

 

消化器を労わるために、小食にする。満腹するまで食べるのは諦めよう。

際限なしにナッツを食べるのをやめる。ストレス解消は食べること以外で見つけよう。

 

自分を愛することは自分を甘やかすこととは少し、違う。

厳しい慈母の眼差しが必要になる。

泣きわめく子にジャンクフードを与えずに、上手に機嫌をとって、栄養たっぷりのシンプルな食事を与えるような感じか。

 

こうして、記事を書くのは簡単です。実行するのは大変だが。

 

アタシはてっとりばやくジャンクフードを与える派。

 

でも、早々に老け込むのはいやなの。

せめて、年齢相応に見られたい、一生、自分の脚で歩きたい。呆けたくない。

それだけだよ!

 

Loveですよ、love

 

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今年は筋肉を育てる

今年は筋肉を育てようと思うのだ。

普通に生活していれば大丈夫、という説があったが、

普通といっても普通には驚くほどの幅があり、日常的にスーパーまで30分歩いて買い物に行ってる人もあれば、買い物全てが宅配で、重いものはほとんどもたずに生活している人もいる。

都会に住んでいる人は、自宅から駅、駅での乗り換え、及び仕事場までの道のり。これだけで、一日5000歩から7000歩は軽くいくだろう。

逆に田舎住まいで、移動は車で、仕事場でデスクからコピー機或いはキッチンまで歩くのがせいぜい。という人は、たぶん400歩くらいなのではないか(自分のこと)

毎日ヨガをし、ストレッチをしたりとゆるく運動習慣はあったつもりなのだが、とんでもない。

とうとう、骨格筋量が29になり、30以下は危険という新聞記事を読んだのをきっかけに昨年はスタンディングデスクを導入。

いまや、自宅も仕事場もこれである。食事をする時以外は、全部これ。育てよ、筋肉!

で、その甲斐あってか、東京駅の京葉線地下ホームから動く歩道を横目で見ながら速足で歩いたあとで、心臓破りの階段(普通のサイズの倍の長さ)を軽快なテンポで登り切り、そして、息が乱れないという、1月13日の成果である。

数年前、この長階段を登り始めたものの途中で息切れし、踊り場で休むのもかっこ悪すぎるので、がんばって最後まで登ったはいいが、すっかり息が上がってしまい、息が整い鼓動が収まるまで数分かかった、という過去の汚点があったのだ。

心臓が悪いのかと思った。

しかし、そういうことでもなければ、自分の筋肉が減っていることなどには気が付くまい。というか、その時には、単に、心肺機能が衰えてる、と思っただけでそこまで筋肉が落ちているとは自覚していなかった。

週一でバレエに行っているし、毎日のようにヨガまたはストレッチをしているし。。

しかし、初めてウオーキングした時のその衝撃を忘れない。

一応20分くらい歩く予定だったのだが、途中で疲れてしまい、死にそうになりながら帰宅。それから4、5日猛烈な筋肉痛に苦しんだという。。

歩き方も良くないらしく、すねが筋肉痛になるのだった。

あれから数年。

1か月程ご無沙汰することもあるが、何とかウオーキング習慣は定着したのではないだろうか。

久ぶりで60分くらいのコースにトライしても以前のような筋肉痛にはならない。

順調に筋肉は育っている。骨格筋量も30・5まで回復した。

だが、筋肉育成はこれからである。

筋肉トレーニングの本を数冊購入した。

しかーし、付けたい場所に筋肉をつけるためには、やみくもに筋トレをしてもダメである。

ただでさえ立派な太もも(でも、後ろ側の筋肉は貧弱)にこれ以上の筋肉は欲しくない。

例えば、ヒップアップのためにスクワットをすると、私のやり方では、脚のみに筋肉がついてしまうのだ。

 

そうだ、ジムに行こう!

 

しかし、私が選択したのは、ピラティスの個人レッスンであった。

個人レッスンをしているジムが近所に見つからないのと、良質な筋肉を正しい場所につけるためには、まず、筋肉の正しい使い方を身体に覚えさせることがマストではないかと思ったためである。

(骨格が歪んでいるのは、骨に問題があるのではなくて、骨を支持している筋肉の使い方に問題がある)

歪んだ身体で筋トレをしたら、さらに歪みが増幅されてしまう。

こんな身体に、そのまま筋肉を纏わせてはならない。

この1月で2年目になるが、数日前のピラティスで、横から見た自分のヒップが信じられないほど高い位置に上がっているのを発見し、感動した。

ヒップアップの体操などしてないのだ。

ただ、首を調え、肩回りを調え、骨盤を調え、股関節を調え、ていっただけ。

恐るべしピラティス。

だが、 悲しいかな、数時間後には、いつもの筋肉の使い方に戻ってしまい、ヒップの位置は元の場所に落ち着いてしまったのだが。

老いつつある身体への何よりのプレゼントではないか。骨格を調えて、しなやかで美しい筋肉をまとわせる。

ご自愛ですな。

Loveですよ、love

 

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今日までそして明日からもアタシは

 

今日までそして明日からもアタシは

 

例えば30歳の時点で今の心境にあれば、もっと丁寧に実りある人生をおくれていたのに、、、

どうでもよい読書にひたったり、

仕事ばかりしていてリビングの床で数え切れないほど寝落ちした日々、、、

 

でも、それほどは、ひどくはなかった、

 

20代で酒、タバコ、と縁を切ったし、

少なくても健康的であろうとする心構えはあった

 

そう、悪くはなかった

 

過ぎた時間を、浪費だ空費だ、と断罪したがるのは、

秋のセンチメンタリズム

 

来年に還暦を迎えるということで、

来し方行く末を考えている

 

そう、悪くはなかった

 

この先も、

 

今とそう変わりなく、

来たチャンスに乗り(それこそが天の声)、

目の前のことを誠実にこなし、

家にあってはお猫さんとリラックスし、

時にささやかに羽目を外し、

時に自らに厳しい勉強やチャレンジを強い、

年に数回、温泉宿に行き、

同じくタワーホテルでリッチなディナーを楽しみ、

時にはくたくたになるまでエクササイズをし、

ある日は絶望し、

次の日には希望に満ちて太陽を見上げ、

仕事が成功してクライアントに大喜びされ、

または、

まるで役に立つことが出来ずに無能無策ぶりを世間に晒し、

恥ずかしさに廃業を考え、

それでも時には感謝されることもあり、

それに励まされつつ日々を過ごし、

人に愛され、

時には誤解され、

中傷され、

愛し、

愛され、

そんな風にこの先も

生きる。

 

Loveですよ、love

 

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健康法としての冷えとり生活

 

健康法としての冷えとり

 

冷えとり生活を、何年も続けている、という方々と遭遇した。

 

たまたまそのような場所であったので、そこには、そんな方が約3人。

 

私も、過去に数年間、ゆるい冷えとりを実践したことがある。

 

 

こんな感じ。

 

夜寝るときだけ靴下4枚(絹・綿・絹・綿)

半身浴は42度くらいの暖かいお湯で2、30分

または、44度くらいで、10分くらい(高温半身浴と命名)

小食で、野菜は根菜中心。 動物性のものはあまり摂らない

 

上記は、いわゆるなんちゃって冷え取りといったもので、都合のいいところだけ取り入れているので、もはや、本家のルールを逸脱している。

 

本当は、

 

昼間も夜同様あるいはそれ以上にたくさん、靴下をはく。スパッツとかも数枚(もちろん夏でも)

その代わりに上半身はできるだけ薄着で、首回り、手首は露出。

半身浴は38度位のぬるい温度で、数時間でも半日でもお好きなだけ。

食べ過ぎ厳禁。

 

どう考えても実際的ではないので、自分で都合のよいところだけ、採用した訳だ。

がんの再発が懸念されていた時代のことだが。

 

万病に効く冷えとり健康法というので、全ての病気に効くのである。

 

であるならば、体調の不具合が解消された時点で終わりにした方が良いのではないか。

もしも、終わりにした時点で体調がまた悪くなるのであれば、治ってなかったということだろう。

一生、その生活を続けるのはいかがなものか

 

実践してる人達を否定する気は全くないのだが、大変そうなこと甚だしい。

どうも活動的ではない感じである。

 

これをしないと健康になれない、強くなれない、社会生活ができない等々、自分のエネルギーを病気から守り逃げることだけに使うのはどうなのか。

折角の人間としてのパワーを、そのことだけで使い果たしてしまってるのではないか

これをしないとだめ、と思うことは、自分のキャパシティを自分で制限してることと同じなのではないか

制限ばかりしていたら、本来持っていた活力は、どんどん衰えていってしまうのではないか

 

他の流派の食生活改善系の人たちからも、同様の空気を感じたことがある。

 

ひとことでいうと、どことなく生気がなくて、弱そう。。。

ふんわりしていて優しそうなのだが。

 

ただ、提唱者は、一生続けるものと言っている。

 

ハートにあるのは、Love、love、loveですよ。

 

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腕時計は、レディースサイズ。

 

腕時計は、レディースサイズ。

 

長い間、腕時計は、メンズサイズを愛用してきた。

小物として大変に愛着のあるものであり、欠かすことのできないアクセサリーである。

 

そもそも腕時計を付けて外出する習慣が形成されたのは、高校生になった時だ。

それまでも幾つかの女性用の時計を贈られたことがあり、別にそれでもよいようなものだったのだが、

当時の美意識としては、

自分の手首に大きくごつい腕時計が嵌まっていたら華奢に見えてよいのでは、というものであったので。

当時は、今より10キロ近くグラマラスな体型だった。

もちろん、手首も太い。

父から外出用の時計をねだって自分のものとし、

そのメンズサイズを愛用した高校時代の3年間。

そのあと自分で買うようになってからも、メンズサイズ。

当時の美意識である。

そして、高校卒業後はどんどん手首が細くなっていったので、(若い時から老女の手首のように薄く、細い)

高さも大きさもあるメンズサイズはさらにその華奢さを強調して、

うーん、どうだったのか、

ま、当時の美意識であるので深追いはしない。

 

時は流れて、先般、

出かけた先で不始末があり、つけていたメンズの腕時計がそちらのお宅のテーブルにあたって、大きな音を立てた。

出かけた先は講師の自宅でのマナー講座。

あああ、しっかり、叱られ、その場で時計をはずしてバッグの中へ。お茶席みたい。

 

で、帰り道考えたのが、

これは大きな時計を付けているからテーブルにあたるのであって、

そろそろ女物を付けた方がいいという、天からの声なのではないか。

 

 

アマゾンで、お気に入りのメンズサイズのペアウオッチとして紹介されていた婦人用を購入。すぐに届く。

これがまた微妙なのだが、

いやいやいや、初めて買ったレディースサイズ。女の人みたいだ。

 

華奢で、壊れそう、玩具みたい、繊細、かわいい、小さい、

このようなものをこの私の手首に、似合うのだろうか。

 

しかし、装着するや否や、私は、自分が女の人だったことを想い出す。

 

信じられないくらいに、似合うの。

老女のような薄い手首に、これ以上はないほどの微妙な質感、色合いで、ジャストフィット。

あああ、知っていたよ、私はただの女の人。

 

Loveだよ、love

 

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人を赦し、自分を赦すということ

 

人を赦し、自分を赦すということ

 

敬愛する斎藤一人さんの言葉に、

「許したかったら、ただ許しますって言えばいい。それでも人を許せなかったら、そんな自分を許す、って言えばいい。自分を許すって言えばいい、許せない自分を許すって言えばいい」

というようなものがあり、とてもお気に入りの言葉である。

 

(しかも、これらの黄金のような言葉がyoutubeで無料で聞くことが出来る。

夢のようである。)

 

で、許す件であるが、

 

過去に何人かどうしても許せないという人がいて、許せないことによっていいことはひとつもないので、

何とかして許したいと思い、

忘れたいと思い、

(ほとんど忘れているのだが、何かのタイミングで現れてきて苦しみが生じる)

幾つかの方法を試してみた。

 

ただ、「許します」、と言うことは、言うたびに、

実は私はこの人を許せてないんだ、許したいというか、許すべきと思っているだけで、

さらにその状態を強く自分に言い聞かせているようなものなのではないのかな、

という思いがあって、

これらを言葉にした記憶はあまりない。

 

だが、この「許しますって言えばいい」、のフレーズは、

一人さんの声とともに何度も頭の中でリフレイン、リフレイン、しているうちに

何だかどうでもよくなってきたみたい。

 

ふと気づくと、

どうしても許せなかった人たちの、いったい何が許せなかったのか

思い出そうとしても何だか夢か幻の中の出来事であったかのように

とりとめもなく輪郭も不確かで、

これが老いるということなのか、、、

どこがどうだったのか、よく、思い出せない事態に。

 

あああ、、、、

でも、これが、許すということなのかも。

 

で、気持ちよく、言えました。

「○○、あなたを許します」

「▽▽、あなたを許します」

 

ある日の瞑想で、それらを気持ちよくマントラを唱えるがごとく心の中に漂わせていると、

 

がん!

 

天啓が。

 

許すって何なのか。

いったい何を、許すのか。

この自分が、他者を許すって、一体どうゆうことなのか。私は何者?

 

人を許すどころではない。

許してほしいのは、こっちじゃなかったのか?

 

 

霧が晴れるように脳裏に幾人かの顔が浮かび、

 

気持ちは充分わかってるから、もう、気にしなくていいから、安心していいから、

 

と言葉をかけてもらったのは、こちらの方だった

 

 

赦された、と、思った。

 

Loveですよ、love。

 

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