穏やかな自分でいるために、ご自愛を。
以前は、若い頃は、激しい人だったのだが、
近年は、体調さえ良ければ、ほとんどの局面で、穏やかで平和な自分でいられる。と思っていた。
特に子供の頃は、粗削りとか、荒っぽい、不注意、と叱責されることが多かった。
しかしながら、長い人生行路を歩んでいるうちに激しさは影を潜め、
ずいぶん静かな大人である今日この頃。そして、
特にコーヒーを昨年の初夏にやめて以来は、さらにいっそう比較にならないほどに、
すっかり別人のように穏やかである。
というつもりだったのだが。
どうしたことか、近頃目につくのが、
何か失敗、慌てる、焦る、挙句の果てに二次被害発生、
という流れであり、いつの間にか今や定番である。
穏やかな自分と思っていたのは錯覚だったらしい。
先日、あるお稽古先で、三回連続でお小言を頂戴した
1上がり框で、靴を脱ぎながらバランスをとるために壁に指先を軽く触れたところを見られ
2 それを叱責されながら玄関ホールに飾ってあった高価な絵に背中が触れそうになり、さらに叱責を受け
3 「食事時のテーブルにはハンカチを置かないものですよ。」と言われあわててひっこめた拍子に手に持っていたボールペンをテーブルにぶつけ、もちろん叱責を受けた。
さらに、その上、いちいちびくびく反応しないように、とのお小言も頂戴するという。。。ていたらくである。
これは、何かの啓示だろうか。
問題は、まず。最初の失敗の前にすでに平常心を失っているということだ。
「早く、靴を脱がなければならない。早く。早く。」
別に急ぐ理由はない。誰が急かしてるわけでもない。
半ば習慣的に急ぐ。
脅迫でもされてるかのように急ぐ。
無知なゆえの失敗は仕方ないにしても、
冷静で落ち着いてさえいれば、
モノを落とすとかどこかにぶつける、とか
そういう初歩的なミスは侵さないはずなのに。
で、その失敗のあとで平常心のままでいられさえすれば、
(平常心でいられないまでもひどくあわてさえしなければ)、
二次被害は引き起こさないで済んでいたはず。
どうして何がそのように急がせているのか
で、先日、ちょっとしたセレモニーがあって、上記を踏まえて、
できるだけ丁寧な行動を心がけ、物音なども最小限にすべく、
朝から瞑想を数回行って準備万端整えて臨んだのだが。
これはもう、ハナシの展開が見えたようなものかもだが。
そのとおりである。
待機している座席を離れて、壇上に上がって、表彰を受けるという段取り。
高校の卒業式以来の表彰を受けるという事態に、思いがけず激しく緊張。
でも、丁寧に。落ち着いて。というそばから、
立ち上がりざまに膝をテーブルにぶつけ、ゴーンと大きな音が。
で、もう一方の脚をされに気を付けて抜き出そうとしたところ、
またもや脛のあたりをぶつけ、ゴーンと大きな音が。
膝もすねも痛い。
心はもっと痛い。痛恨の振る舞い!
決して普段落ち着きがないとか慌て者であるとかではない。
そそっかしいわけではない。サザエさんのようではない。
ただ、動作は荒っぽいとの指摘が幼少時からあり、
そういえば、腕にも足にも打ち身の青い痕が途絶えたことはないような気がするほどだ。長じてからは、さすがに擦り傷や切り傷はないが。
大事にすべきなのは、自分の身体、手脚なのか。
外界との境界線である身体
頭(小さい時からよくぶつける。未だに。先日、冷蔵庫の上段ドアを開けたままなのを忘れて、下段の捜索を終え、勢いよく立ち上がり、後頭部を強打)
手指(料理中に何か勘違いして、箸の代わりに熱湯に指を入れたことが二度三度。だが、包丁で切ったことは、一度だけ。プチ自慢)
肘・膝(数え切れず。家の中で、方向転換、カーブの時にぶつける)
すね(週に2回から5回位、その辺にぶつける。外出先でもぶつける。大体、強打することがほとんどなので、青から紫へと移っていく打ち身マークが途絶えたことはない)
足指(少し油断すると狭いところを通過する際に小指をぶつける。先日は、椅子の脇を通りかかったときに、中指というのか第3指を強打。骨折したかと思うほどの痛み。翌日、その指だけきれいに全部が紫色)
書いていて思うのが、何故にいつも急いでいるのか、と。実際に忙しくて時間がない日もあるのだが、そうでない日もあるのに。
いつも急いでいる。
せかせかしてるのとは違う。必死で急いでいる感じ。
身体を大切に扱うことは、心を大切に扱うことと一緒である。
あわてないように、平常心で、と唱える前に、
身体をもっと丁寧に扱うことだ。
そんな気持ちでいられれば、振る舞いももう少し、エレガントになれるのかも。
月に一度のお稽古の教室が、あと一週間でやってくる。
まずは、自分の身体に愛を。
ご自愛を祈ろう。
Loveだよ、loveっ