人を赦し、自分を赦すということ

 

人を赦し、自分を赦すということ

 

敬愛する斎藤一人さんの言葉に、

「許したかったら、ただ許しますって言えばいい。それでも人を許せなかったら、そんな自分を許す、って言えばいい。自分を許すって言えばいい、許せない自分を許すって言えばいい」

というようなものがあり、とてもお気に入りの言葉である。

 

(しかも、これらの黄金のような言葉がyoutubeで無料で聞くことが出来る。

夢のようである。)

 

で、許す件であるが、

 

過去に何人かどうしても許せないという人がいて、許せないことによっていいことはひとつもないので、

何とかして許したいと思い、

忘れたいと思い、

(ほとんど忘れているのだが、何かのタイミングで現れてきて苦しみが生じる)

幾つかの方法を試してみた。

 

ただ、「許します」、と言うことは、言うたびに、

実は私はこの人を許せてないんだ、許したいというか、許すべきと思っているだけで、

さらにその状態を強く自分に言い聞かせているようなものなのではないのかな、

という思いがあって、

これらを言葉にした記憶はあまりない。

 

だが、この「許しますって言えばいい」、のフレーズは、

一人さんの声とともに何度も頭の中でリフレイン、リフレイン、しているうちに

何だかどうでもよくなってきたみたい。

 

ふと気づくと、

どうしても許せなかった人たちの、いったい何が許せなかったのか

思い出そうとしても何だか夢か幻の中の出来事であったかのように

とりとめもなく輪郭も不確かで、

これが老いるということなのか、、、

どこがどうだったのか、よく、思い出せない事態に。

 

あああ、、、、

でも、これが、許すということなのかも。

 

で、気持ちよく、言えました。

「○○、あなたを許します」

「▽▽、あなたを許します」

 

ある日の瞑想で、それらを気持ちよくマントラを唱えるがごとく心の中に漂わせていると、

 

がん!

 

天啓が。

 

許すって何なのか。

いったい何を、許すのか。

この自分が、他者を許すって、一体どうゆうことなのか。私は何者?

 

人を許すどころではない。

許してほしいのは、こっちじゃなかったのか?

 

 

霧が晴れるように脳裏に幾人かの顔が浮かび、

 

気持ちは充分わかってるから、もう、気にしなくていいから、安心していいから、

 

と言葉をかけてもらったのは、こちらの方だった

 

 

赦された、と、思った。

 

Loveですよ、love。

 

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穏やかな自分でいるために、ご自愛を。

 

穏やかな自分でいるために、ご自愛を。

 

以前は、若い頃は、激しい人だったのだが、

近年は、体調さえ良ければ、ほとんどの局面で、穏やかで平和な自分でいられる。と思っていた。

特に子供の頃は、粗削りとか、荒っぽい、不注意、と叱責されることが多かった。

しかしながら、長い人生行路を歩んでいるうちに激しさは影を潜め、

ずいぶん静かな大人である今日この頃。そして、

特にコーヒーを昨年の初夏にやめて以来は、さらにいっそう比較にならないほどに、

すっかり別人のように穏やかである。

 

というつもりだったのだが。

 

どうしたことか、近頃目につくのが、

 

何か失敗、慌てる、焦る、挙句の果てに二次被害発生、

という流れであり、いつの間にか今や定番である。

 

穏やかな自分と思っていたのは錯覚だったらしい。

 

先日、あるお稽古先で、三回連続でお小言を頂戴した

 

1上がり框で、靴を脱ぎながらバランスをとるために壁に指先を軽く触れたところを見られ

2 それを叱責されながら玄関ホールに飾ってあった高価な絵に背中が触れそうになり、さらに叱責を受け

3 「食事時のテーブルにはハンカチを置かないものですよ。」と言われあわててひっこめた拍子に手に持っていたボールペンをテーブルにぶつけ、もちろん叱責を受けた。

さらに、その上、いちいちびくびく反応しないように、とのお小言も頂戴するという。。。ていたらくである。

 

これは、何かの啓示だろうか。

 

 

問題は、まず。最初の失敗の前にすでに平常心を失っているということだ。

 

「早く、靴を脱がなければならない。早く。早く。」

 

別に急ぐ理由はない。誰が急かしてるわけでもない。

半ば習慣的に急ぐ。

脅迫でもされてるかのように急ぐ。

 

無知なゆえの失敗は仕方ないにしても、

冷静で落ち着いてさえいれば、

モノを落とすとかどこかにぶつける、とか

そういう初歩的なミスは侵さないはずなのに。

 

で、その失敗のあとで平常心のままでいられさえすれば、

(平常心でいられないまでもひどくあわてさえしなければ)、

二次被害は引き起こさないで済んでいたはず。

 

どうして何がそのように急がせているのか

 

で、先日、ちょっとしたセレモニーがあって、上記を踏まえて、

できるだけ丁寧な行動を心がけ、物音なども最小限にすべく、

朝から瞑想を数回行って準備万端整えて臨んだのだが。

 

これはもう、ハナシの展開が見えたようなものかもだが。

 

そのとおりである。

 

待機している座席を離れて、壇上に上がって、表彰を受けるという段取り。

 

高校の卒業式以来の表彰を受けるという事態に、思いがけず激しく緊張。

でも、丁寧に。落ち着いて。というそばから、

立ち上がりざまに膝をテーブルにぶつけ、ゴーンと大きな音が。

で、もう一方の脚をされに気を付けて抜き出そうとしたところ、

またもや脛のあたりをぶつけ、ゴーンと大きな音が。

 

膝もすねも痛い。

心はもっと痛い。痛恨の振る舞い!

 

決して普段落ち着きがないとか慌て者であるとかではない。

そそっかしいわけではない。サザエさんのようではない。

ただ、動作は荒っぽいとの指摘が幼少時からあり、

そういえば、腕にも足にも打ち身の青い痕が途絶えたことはないような気がするほどだ。長じてからは、さすがに擦り傷や切り傷はないが。

 

大事にすべきなのは、自分の身体、手脚なのか。

 

外界との境界線である身体

 

頭(小さい時からよくぶつける。未だに。先日、冷蔵庫の上段ドアを開けたままなのを忘れて、下段の捜索を終え、勢いよく立ち上がり、後頭部を強打)

手指(料理中に何か勘違いして、箸の代わりに熱湯に指を入れたことが二度三度。だが、包丁で切ったことは、一度だけ。プチ自慢)

肘・膝(数え切れず。家の中で、方向転換、カーブの時にぶつける)

すね(週に2回から5回位、その辺にぶつける。外出先でもぶつける。大体、強打することがほとんどなので、青から紫へと移っていく打ち身マークが途絶えたことはない)

足指(少し油断すると狭いところを通過する際に小指をぶつける。先日は、椅子の脇を通りかかったときに、中指というのか第3指を強打。骨折したかと思うほどの痛み。翌日、その指だけきれいに全部が紫色)

 

書いていて思うのが、何故にいつも急いでいるのか、と。実際に忙しくて時間がない日もあるのだが、そうでない日もあるのに。

いつも急いでいる。

せかせかしてるのとは違う。必死で急いでいる感じ。

 

身体を大切に扱うことは、心を大切に扱うことと一緒である。

 

あわてないように、平常心で、と唱える前に、

身体をもっと丁寧に扱うことだ。

 

そんな気持ちでいられれば、振る舞いももう少し、エレガントになれるのかも。

 

月に一度のお稽古の教室が、あと一週間でやってくる。

まずは、自分の身体に愛を。

ご自愛を祈ろう。

Loveだよ、loveっ

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文章化と、苦しかった過去の追体験

 

文章化することによって、過去の苦しさを追体験してしまうこと

 

だからいやだと思っていたのだが、どうしても記録として残したいと思ったので、

昨日私はコーヒー離脱時のひどい禁断症状について文書を書いたのだが。

 

書いてるそばから記憶がよみがえり、とりあえず書き終わったときにはもうどっぷりと

離脱当時の苦しい記憶がまざまざと思い起こされて、

どうにもこうにも気分が下がってしまって

不快である。

 

ネガティブは25パーセントくらいあった方がむしろ良いというような話を聴いたこともあるのだが、

この数日お天気も悪くただでさえ暗く湿りがちな心が、

15か月も前のことにこれほどに影響を受けているとは。

 

人間の想念のすごさ。

 

以前、余命宣告までされたガンから生還というか、13年経過で元気であるが、

手術当時はいろいろと記録を残し、いつか、闘病記を書くぞという気持ちがあったのだが、

がん、がん、と脳裏にいつもそのことが離れないと、

これはものすごく再発可能性を高めているのではないか、ということに思い当たったために

すべての記録、当時の日記を含めてすべて廃棄し、

たぶん、この研究所のおかけで生還できたというありがたい恩ある非営利団体からも

脱退した。

その団体から毎月送られてくる冊子(がんとの闘いの記録、傾向と対策)を読み続けるのが苦しくなったためであった。

 

しかし、今回、単に記録として、珈琲との別れの顛末は残したいと思ったのだ。

 

紛れもなく人生の一部であった。そして、珈琲を愛する気持ちは未だ健在だから。

 

Loveだよ、珈琲love

 

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気分の良し悪しとは、結局のところ、体調の善し悪しである

 

気分の良し悪しとは、結局のところ、体調の善し悪しとイコールである。

 

何ということもないのに気分がいい、

そんな時に原因を探ってみると、

(いちいちこのように何かの原因を探るという行動は、

人生を煩雑にしてるかもしれない。のだが、

やはり、どうしても再現性が欲しいため、原因究明は必要なの)

例えば、久しぶりに太陽が顔を出した、とか

懐かしい友達から連絡があったとか、

思い当たる理由はそれなりにあるのだ。

 

が。

 

近頃気が付いたのが、

原因はともあれ、

体調こそが全てなのではないかな、

ということだ。

 

久しぶりに太陽が顔を出した日に

お腹の調子がイマイチだったら、太陽のことは、眩しくてイヤ!と思うだろう。

 

同じく、風邪をひいて寒気と発熱で震えている時に

懐かしい友人からの電話が来ても、

何を考えているの、やめてよ、ウザい!と思うかもしれない。

 

でも、体調さえよければ、

或いは、悪かった体調が普段通りになっただけでも、

気分は一気に晴れ渡り、爽やかに明るくなるのではないかな。

 

で、近頃、魔法の技を発見したのでシエアしたい。

 

それは、腹式呼吸だよ。

 

これを試みると、あ~ら不思議、

たちどころに体調がよくなり、

それに同調するかのように気分が上昇する。

 

腹式呼吸にもいろいろな流派があって、それぞれやり方に違いはあるのだが、

いずれも正確に実践できないので、(できているのかイマイチ自信が持てない)

そのために腹式呼吸のマジックを味わえないのは不幸だ。

 

という訳で、要するに、

自己流、というものですね。

以下に掲げます。

 

要は、呼吸の際に腹筋を用いて、

吐くときは、お腹をペタンコにする感じでしっかりと限界近くまで吐きだし、

吸うときは、その力をふっと抜いて自然に空気が入るに任せる。

このときに胸は膨らませないほうがよいみたい。

完全呼吸とかいうワザで、

腹も胸も膨らませるというのを見たことがあるが、うまくできないので、

腹、のみで対応することにしたい。

二兎を追うもの一兎をも得ず。

効果はたちどころに現れる。

 

よく車の運転をしながら行うのだが

いつのまにか頬がゆるんで、笑顔になっているのが

自分ながらうれしい。

 

実は、お腹の動きが悪くなった時限定でこの技を使うようになって、

はや10年余

(腸閉塞の持病あるので。)

腸閉塞の人にとって、お腹の動きが悪くなるということは、

これはもう、ピンチなのだね。

この時点で手を打たないと、

腸が本格的に動かなくなってしまったら、大騒ぎ。

最悪、開腹手術を施さないと絶命しかねないという、危機的状況である。

 

治療としてのこの腹式呼吸にたどり着くまでは、

このようにお腹の動きが悪くなると、

指圧とかお灸とかを直ちにしなければならず、

けっこう、悲惨な状況が多々あったのだが、

これを知ってからは、本当に楽になった。感謝である。

 

因みに、初めてこのようにお腹の動きが悪くなった時、

初回でなんの知識もなかったため、

状況がどのように進行していくのかまるでわからず、

あれよあれよという間に立っていられないほどの激痛で、

救急車で運ばれるも、結局、開腹手術とあいなったわけだ。

もう、手術は二度といやである。

で、

幾多の方法を試してみて、実効性ナンバーワンなのが、

この腹式呼吸なのだ!

 

だが、身体に異常のないときにこの呼吸を試すことはほとんどなかったというか

なかなか習慣にならなかった。

喉元過ぎれば熱さを忘れる私である。

でも、「転ばぬ先の杖」って、やはり大事では、

ということで、

「毎正時に1、2分腹式呼吸をするといいらしいよ」いう話を聞き、

試してみたわけだ。

 

いやあ本当に、

腹式呼吸、侮れじ!!

 

なんとまあ、一気に気分が、朗らかに晴れやかに。

(それでもやっぱり忘れがちなの。)

 

Loveだよ、love

 

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スタンディングデスク導入しました

 

スタンディングデスク導入しました(6か月経過!!)

 

スタンディングデスクを自宅に設置したくなったのが、3月のこと。

いきなりそのようなことを始めて、ダメだったときに備えてまず、

手頃な台をデスクの上に設置して、

立ったままいろいろすることが可能なのかを試してみた。

 

新聞を読む。化粧をする。

けっこう、大丈夫!

いける。と確信

 

なので、

 

早速発注し、

自宅に1台。仕事場に1台。

 

4月5日が使用開始日。

 

思えば自宅ではそれほどのことはない。

そもそも家事その他で立ち働いているか眠っているかなので、

座っている時間がそれほどあるわけではないので、

それこそ、新聞読みと化粧とあとは、時間ある時の読書。

立ったまま。

食事は立ったままではさすがにまずいので、

この時はバランスボールに腰かけている。

 

さて、問題は仕事場である。

 

ハイヒールを履いている私。

初日、午前中が経過した時点で、すごい疲労感。

書類仕事は立ったまま。電話受けとか全部。

当面は、PC仕事だけは腰かけたまますることに。

あまり、PCに関わる時間は多くないが、この仕事まで立って行うことにしてしまって後でスタンディングデスク廃止することになった場合面倒だと思ったので

 

それでも弁当は、椅子に掛けて戴くと。

 

午後は長いよ。

 

面談の必要なお客さまがあれば一緒にテーブルにつかせて戴くが、そのような来客がない時は立ったまま。

時々歩く。コピーとりとか。

ハイヒールを履いている私。

 

すごい疲労感。

初日、

死にそう、と思った。

 

書類仕事は全部たったまま。

で、翌日は、けっこうな全身筋肉痛。

一晩寝ても疲労感が抜けない。

しかし、

自分の身体のためにすごくよいことをしているという全肯定感があって、

我ながら前向きな感じ。

筋肉痛、うれしいわ。

セルフイメージは、一気にマイナス10歳といったところか。

でも、辛い。

 

でも、辛い。

 

すごい疲労感。

 

ここで、やめないのは自分ながら偉いのではないか。

最初の数日或いは1、2週間は当たり前的に辛いのさ。

自分を叱咤する習慣はないと思っているが、妙に頑張った。

 

たぶん近頃の運動不足が自分的にあまりにも問題と思っているので、

このスタンディングデスクを使い続けることが

最適解と思い込んでいるわけだ。

いや、だけど、辛い。苦しい。。。。

と、泣き言は言っても

諦めない。

 

さらに2、3週間経過し、疲労感はたいして軽減されないながらも問題なし、と

見極めたため、

PC作業も立ったままやりたいことに。

PC用の台を導入して、

仕事場での全作業はスタンディングデスクを使用して行うこととなった。

 

ふと何かの拍子に椅子に腰かけると、

たちどころに疲労が抜けていくのがわかる。

ポイントは時々小休止をいれることか。

問題は、集中しているとそのタイミングを逃してしまうこと。

気が付くと、とんでもないくらいに脚が、或いは足が、痛い。

ハイヒールを履いている私。

 

ある日、ピンとひらめき早速試行したのが、

靴の前を少し高くしたら楽なのではないかと、

麺棒を床の上に置き、靴の前方つま先で踏むようにして立つこと。

 

楽である。

 

問題は、麺棒は転がりやすいため安定が悪く、

そこはかとなく怖い(そこに体重を掛け過ぎてずるっと滑る)ので、

集中仕事の時は避けた方が無難なような気がする。ので、

どうしても使用頻度が減り、一日使わないと、しばらくそのまま忘れて放置される破目に。

 

また、そもそも立ち方に問題があったことも発覚。

膝の過伸展というのだと思うのだが、

膝が伸びすぎ(腱に余裕がなくなって怪我をしやすい、矯正の必要がある状態)ているため、

使うべき所でない場所の筋肉を使ってしまう結果、本来よりも疲労が激しい、らしい。

 

指摘を受けるまで、自分の膝が過伸展の状態だったとは、知らなかったのだが、

日曜日にピラティスを60分こなすと、先生はそのあたりのことを集中してエクササイズしてくれるので、

翌日の、特に午前中のスタンディングは、問題まったくなし。

重心がきちんととれているので、ハイヒールを履いた状態で立ち続けていてもどこも痛くならないのだ。

 

スタンディングデスク導入してかれこれ6か月になる。

 

自宅および仕事場で立ちっぱなし状態であることは完全に習慣となり、

椅子に掛けて書類仕事をすることは考えられない。

だが、時に、理由もなく、いや理由は疲れたからなのだが、

諦めて10分くらい腰かけてティーブレイクをする。

コツはそれかな。無理をしないこと。

とは、言っても、けっこう、無理をしているのか。

努力か。

生き延びるための。

 

同僚に聞かれる。何してるんですか。

 

それはね、鍛えてるのよ。死ぬまで自分の脚で歩くために。

 

Loveだよ、love

 

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失った体重をとりもどす

 

失った体重を取り戻す

 

過去に派手な病気をしたことがあって、その病気のためというよりは、

治療の一環として採用した「食餌療法」のためだったのだと思うが、

約10年ほど、BMIが17、という激やせ(自分的には)の日を送った。

かつては、身長が160センチに対して48キロほどの程よい体形だったと思うのだが、

一気に40キロに落ち、

その後なんと約10年間に渡り、様々な努力に関わらず体重が回復することはなかった。

 

ようやく、この1年ほど常に46キロを維持できるようになったので、

本格的に治癒したのかと我ながらうれしい。

体型的には、増加分はほとんど下半身についたようだが、

顔も幾分かはふっくらし、

以前のように

「どおしたの、そんなに痩せちゃって!」

という悲鳴のような感想の声は聞かれなくなった。

それだけでも十分うれしいぞ。

(言わなくてもいいのではないかな。感想は。)

 

 

やはり、身体も心も

傷んでいたのだろう。

 

同じこと(食事療法・瞑想・代替療法)をしても、

心が疲弊し、消耗し、身体がそれを拒んでいたら、

どんなよい食べ物や薬であっても、

心の向かう方へ身体は動く。

 

心身が回復し、体重が元通りになるまで、この10年(正確に言えば12年)は必要な時間だったということだ。

だからあれこれ手を尽くしても体重は増えなかった。

体重だけが元通りにならなかったのではなくて、

再発こそしなかったものの、健康ではなかった。

うつ病にこそならなかったが、精神も元気ではなかった。

そういうことなのだと思う。

 

 

当時はそのようなメカニズムが納得できていなかったので、

「体重が増える」、という触れ込みの幾つかのことを試した。

失った体重を取り戻せさえすれば、

以前のように健康な体になれるはず。と信じて。

 

・漢方薬 ・体を温める効果のある食べ物

おかげさまで、冷えは解消したっぽい

・ヨガ  ・適度な運動・ラジオ体操・ウオーキング

一時期、筋肉衰えすぎ、と呆れられたものだが、多少はこれで回復した

・消化吸収力を上げる体操 ・瞑想・ストレス軽減のためのいろいろ

そもそも食欲がなかったわけではない。吸収力が低下してるのかなと思い、こちらの療法をいくつか。効果は不明だ。体重増加につながらなかったのは確か。

・鍼灸・整体・オステオパシー

けっこうな長期通っているのだが。

たぶんこれのおかげで体調は良いのだが、体重は増えない

・サプリメント (ズバリ太れないあなたへ、的な)

なお、以上の中で、サプリメントのみ、具合が悪くなったので数日で中止する破目に。

3種類くらい試したが、いずれもはずれ。

飲む前より具合悪くなってどうする!

これを好転反応と言い張るのはどうかな。

 

 

で、

どう考えても、まず手を付けるべきは、食生活である。

 

手術直後から一時期ヴィーガン(動物性のものは摂らない。乳製品も同様)だったこともあり、

その当時は42キロもやむなし、治療のためであると諦めていた。

砂糖、果糖、蜂蜜等の糖分の一切を断ち、

おそらく簡単に体重が減ってしまった最大の理由はそのあたりだと思うのだが、

そののち3年ほどが過ぎ、ほとんど普通食に戻したあとも、

どうしたことか体重は増えないのだった。

(どこがどう悪いというのではなく、単に、回復途中だったということね)

まず、それまで常食していた玄米菜食に加えて、

スイーツというか、いわゆるマクロビスイーツ、すなわち、白糖ではなくて黒糖、メープルシロップ、蜂蜜を使っているスイーツのことだが、

これを解禁。

しかるべきのちに砂糖も解禁。

白いパンも解禁。

体重に変化なし。

動物性のものを食べないことを除けば、ほとんど普通食(白米は食べず玄米を日に2、3回)

この時代がたぶん5,6年続き、

ようやく肉、魚を解禁。

折も折、糖質制限が流行りとなり、

玄米を日に1回のみとし、その分のカロリーはチーズと肉で補うこととした。

このあたりからようやく明るい兆しが見え始め、

時には44キロ超を記録することも。

さらにこの状態で数年経過したあと、

ついにアーユルヴェーダ(インドの医学)と出会い、

そのクリニックで診察を受け、

一気に46キロを超えるに至ったのだった。

 

ポイントは2つ。(いくつもポイントはあるのだが、特に体重増加に寄与したと思われるものを記す。)

またこれは、誰にでも当てはまるわけではなくて、

あくまで、固有の体質に合わせた処方に従ったものであるので、念のため。

 

まず、玄米を廃止することにして、白米を炊くようにしたこと。

これは、できるだけ、作り立ての食事をとる(ランチに弁当を持参するよりも近所のレストランでとるのがよい)ことを薦められたところ、

手ごろなレストランがないため弁当持参は仕方なかったのだが、

せめて朝炊いたご飯がよろしいということで、白米に。

(玄米は一週間に一度炊いたものを冷凍解凍して持参していたので。)

白米を炊くのは何年振りか思い出せないほど、自宅で白米を食べる習慣は失われて久しかった。

玄米は特殊な炊き方で消化吸収が良いように気を付けていたつもりだったが、

やはり、吸収されてなかったのかと今にして深く反省する。

久しぶりの白米を噛みしめたときの、

あの罪悪感の混じったトキメキに似た感情をなんと言おう。でも美味い。。

 

そして、夕方の空腹時に、温めた牛乳を150cc飲む。

 

牛乳も発病以来飲んだことがなかったのだが、

なんというか、これがまたエネルギー飲料という感じ。

少量の甘みを付けるのもよろし、ということで、蜂蜜を投入。

夕暮れの透き通った水色の空を窓越しに見ながら、

そもそも牛乳をこのような飲み方をすることは何十年ぶりかではないかな、

と感無量だった。

美味、、、と体が喜ぶのがわかった。

そのエネルギーはダイレクトに全身の細胞(おそらく下半身中心として)に働きかけ、

たぶん牛乳が私の体重を増加させてくれたに違いない。

 

何故なら、このあとあっという間に48キロ超まで増えてしまい、

あわてて牛乳の量を減らし、

瞬く間に、減量に成功したからだ。

 

治癒の道と、体重の増減は、切っても切れないものがある。

 

病後の養生と体重を増やすことは同時には叶わない。

 

しかし、牛乳は失った体重を取り戻すのに卓効あり

そして、白米は消化吸収に優れている

 

これは、普遍の真理かも。

 

Loveだよ、love

 

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コーヒー離脱その顛末2

 

コーヒー離脱その顛末~2

 

今となっては笑い話だが、離脱症状は、それはそれは激烈なものだった。

いくつかの予防措置を講じたのだが、それが奏功したのか、しなかったのか検証はできないが、

あの激しさと比較できるのはインフルエンザ位か。

 

幾つか読んだサイトの記事は、皆、いきなりやめるのはちょっと考えもの、と伝えていた。

いきなりゼロにすると体の負担が大きいので失敗しやすい。ということだろう。

でも、こらえ性がないというか、5杯のものを3杯、そして、1杯、というようなことが出来ているなら、そもそもこれほど大量に摂取するようにはなってないわけで、ここはすっぱり、ひと思いにやめてしまう以外に道はない、のは明らかだった。

 

最後の珈琲を5月15日朝に飲み、(たくさん飲むと後が辛いのは承知しているが、これが最後と思うとなかなか終わりにできなかった)

その日は問題なく就寝(昼間は珈琲飲まない日もあったのでこれは大丈夫)

 

さあ、翌朝。

 

起きた瞬間にいつも、「さあ、今日の珈琲!」とばかりに勇んで寝室を後にするのだが、既に足取りは限りなく重い。

早くも頭痛の種子が、発芽しようとしている。

いや、これで、そもそも今日、仕事に行けるのか。

 

で、予防措置。

 

カフェイン除去率99・9パーセントの珈琲を数杯飲む。

これは、習慣としての本物珈琲、飲用の代替としてである。

さらに、紅茶(この時は牛乳を控えていたので、ストレート)及びチョコレート(無糖)をカフェイン補給のために摂取。

で、頭どんどん痛くなる。この時点で最後に珈琲を飲んでから24時間経過。

離脱症状開始。。。

(紅茶、チョコレートは気休めくらいの効果はあったのだろうか。)

 

・・・・・これを書いていて当時を思い出してすごいストレス・・・

・・・・・今、冷凍してあったチョコレートを、中座して、食べてきた・・・・

 

いやいやいや、あの日はね、

仕事場に着いた時は頭の痛さはマックスで、(と思っただけで更にそのあとひどくなるのをまだ知らなかった、、)

判断力低下。

難しい仕事は言い訳をしながら先送り(これは職業人としての責任がさせた判断。決して逃げではないよ)

ともかく、デスクについているのが苦痛。

電話は何とか普通に受け答え。そもそも不愛想なので、体調悪くてもよくてもあまり変わらないのだ。

面談は苦痛。頭が痛くて、目を開けているのがともかく辛いの。

午後になって、さらにさらに頭痛はひどくなり、

眠気というか、なんというか、

そこでようやくハタと気付くのだが、どうしてアタシは早退しないのか。

 

ハタと気付くというより、さび付いたゼンマイがゆっくり動いてその考えをひねり出したという感じ。

どうして早退しないの。

さらにゼンマイが亀の歩みで考えをまとめようとして、

結局のところ、

同僚に、「具合が悪いので早退したい」というセリフをいうのが

どう考えても異常な努力が必要な難行に思えて、

声を出すことができないのだった。

 

頭だけではなく、身体も口も思うようには動かない。

そうこうしているうちに日も暮れて、帰宅時間となったが、

この頭の痛みと、動かせない体で、

クルマを運転することが可能なのだろうか。

いいや、できはしない。

 

できはしないといっても、

したいことはただひとつ。

 

体を横にして眠りたい。

楽になりたい。

全身が悲鳴をあげてるというか、というよりも、

全身が不快感で呻いてる。

 

かつて何度か珈琲を断ったことがあったが、(入院したとき・食事療法したとき・副腎疲労から回復したかったとき)

これほど激烈な離脱症状に襲われたことはなかった。

2、3日続くらしい。

どんなにひどくても2、3週間で平常に復するらしいが。

2、3日にしても、問題は今夜である。

今夜、今だ、今、right now,

どうにかして家に帰りたい。横になって目を閉じたい。

布団に潜り込んで全てを忘れて眠り込みたい

 

実家に電話して助けを呼ぶにしても事情を説明するのに言葉が出ない。

そしてタクシーを呼ぶにしてもそんな苦行をこなせようとも思えない。

電話機を取る。番号を調べる。声を出して。

現住所を告げる。声を出して説明する。。

とても、そんなことはできはしない。

 

自力で帰れるのか?

仕事場の後片付けをして、

電源を落として自分の帰り支度をして

重い鞄をもって

重いドアを開けて

30歩くらい歩いて車に乗り込む。。。

あああ、今の自分にそんな荒行ができようとは思えない。

この感じ、この自分の身体がコントロールできない感じはあれに似ている。

アレだよ、アレ!

インフルエンザ!!!

 

過去に1回だけ、40度越えの発熱をしたインフルエンザに罹患したことがあって、

その際も丁度この時と同様に

重い鞄、コントロールできない身体、全く働かない頭、

この3点セットで仕事先に自分で車を運転して赴いたのだ。

 

丁度その時と同じ。

医者にも行かず、(そもそもやたらに病院へは行かないし、その日は多忙で通院する時間がなかった)

ぎっちり詰まったスケジュールをこなすことだけを考えていた。

事故が起きなくてよかったが、

今のこの状態は、正しくその時ぷらす、激しい眠気と頭痛!

 

そうやってしばらく苦しんでいるうちに

ようやく神の助けが降りてきて、

なんと、自力で運転して無事帰宅。

しかーし、瞼を引き上げ続けることの苦痛。

締め付けるような頭痛の中、

明日のことはどおでもいいの、神様、アタシを家まで無事に運んでください。。。

 

次に気が付いたのはベッドの中であったが、

相も変わらず激しい頭痛。

そうして、普段ならば眠気というのは安らかな優しいものなのだと思うのだが、

すさまじく暴力的な眠気。

その中で憩うのは至難の業らしく、

夜半に何度も、頭が痛くて目が覚める、ううう。ううう。

おまけに眠気は激しく覆いかぶさったままだ(眠っているのに!!)

 

それでも、らぶですよ。らぶ。はあ。

 

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コーヒー離脱その顛末~1

 

コーヒー離脱その顛末~1

 

それは昨年2016年5月15日、日曜日の朝。

明るくなっていく空を眺めながら、人生で最後となる珈琲を味わった。

 

冷凍庫から豆の袋を取り出し、電動ミルに適量を移し、スイッチを入れる。

蓋をし忘れて、豆をそこら中に散乱させたことを懐かしく思い出す。確か、2回。

まさかこんな日が来るとは思いもしなかった、珈琲との長い長い蜜月を

涙ながらに思い起こす。

この朝で最後にしよう。

そのことは決めていた。

 

珈琲をやめることを決意したのは3日前のことだが、

離脱症状の激烈さについては基礎知識があったし、

さらに、ネット検索して禁断症状との付き合い方についても十分学んだため、

いきなりやめるのは危険ということは承知していた。

 

激しい眠気及び頭痛、

どうしようもないほどの倦怠感、焦燥イライラ感に襲われる、

社会人として使い物にならなくなる可能性があるらしいので、

大事な用がある日にかからないようにする、などなど。

了解。

 

なので、大事な予定をこの二日で消化し、

明日からは特に多忙ではない、通常業務が数日続くので、

本日をもって珈琲終了、を決意したという訳だ。

 

そもそもこのようなことになったのは、

3日前、始めたばかりの新しい瞑想(超越瞑想TM)の先生が、私をじっと見て言ったのだ。

「akaibaraさん、珈琲はお好き?」

インド産の珍しいコーヒーでもごちそうになれるのかと思わず身を乗り出し、

食欲が発動したのが今となっては微笑ましい。

「大好きです」

と答えた、珈琲漬けだったakaibara。。。

(なんとまあ可愛いもんじゃあありませんこと?)

 

「コーヒーを飲んでいると、瞑想は今以上に深くなりません」

 

松坂慶子を細面にしたような美人の瞑想教師の口から

さらっと怖いセリフが吐かれた。あんぐりと口を開けた珈琲フリーク。

 

想定外とはこのことで、これを知っていたら絶対にこの瞑想コースには参加しなかったはず。

しかし、このとき既に私の魂は、瞑想することの快適さを知ってしまっており、

その発言に抗うことができない状態となっていた。

教師の言葉は絶対だった。

 

今にして思う。

その瞑想のサイトにもしも一言でも

「珈琲等カフェインは瞑想の上達を妨げるので、受講の方は摂取を控えていただきます。」

との記述があったとしたら、果たしてこのコースを受けていただろうか。

 

時間あたりにしては非常に高額な費用、4日連続で受講という、

平日仕事をし田舎に住む者にとっては、そもそもがハードルの高いカリキュラム設定、

周りに経験者がいないので実際のところどうなのか、という不安(実はこれはあまりなかった。家族が心配していただけ)

これらを乗り越えた上で、さらに、珈琲もやめなければならない、

と予め教えられていたら、絶対に、受講してなかったであろう。

珈琲をやめるなど、いや、全くもって論外であった。

 

後日、(離脱後約7か月経過後)別の教師の方にこの話をしたところ、その教師は珈琲に対してそのような立場はとらないとのこと。

リアリ?やめない選択があったのか?

「無理に禁止しなくても次第に欲しくなくなるからです。

私も以前は飲んでいましたが、

そう言えば、もう、ずいぶん頂いてないですね」

なんと。

 

しかし、そういえば、今、全然、欲しくないのだ。

16か月経過した現在になっても、憑き物が落ちたように欲求が起こらない。

 

離脱時の症状がひどかったので、飲む気になれないのかと漠然と考えていたが、

瞑想を続けることで、

そのようなブースターが必要なくなったということなのかもしれない。

味や香りなど飲み物としての珈琲自体ももちろん好きだったが、

何よりも起爆剤というか、エネルギー補給のために飲んでいた部分が大だったので、

そのあたり、瞑想によって充分に補えているから、

もはや必要ない、身体が要求しない、ということなのか。

 

素晴らしい!

 

瞑想おそるべし!

loveべし!love!loveべし!

 

 

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DR.蓮村誠の「魂の約束」

 

アーユルヴェーダ医師の蓮村誠先生が、

2016年12月28日に、ツイッターに上げられた物語を。

「魂の約束」

~~~ここから引用です~~~

 

小話を1つ。タイトルは「魂の約束」です。

 

天の国にはたくさんの魂たちがいます。

彼らは皆、いつか地上に降りる自分の順番が来る日のことを待っています。

ある日、数百人の魂が神様に呼ばれて広間に集まりました。

魂たちは、これから神様からいよいよ地上に降りるためのお話を聴くために

ワクワクしながら待っています。

 

やがて彼らの前に神様が現れ、ゆっくりと魂たちを見渡してから、魂たちに質問をしました。

「お前たちは、これから地上に降りて、どのような純粋な思いを叶えようとしているのか?」

すると一人の魂がすぐに答えました。

「私は地上にこの上ない美しさを届けようと思います」

もう一人の魂が答えます。

「私は地上に静けさをもたらし、調和と安定を創造します」

さらに、別の魂が答えます。

「私は、愛という滋養を与え、豊かさと幸福をもたらします」

神様は、微笑みながら黙って聴いています。

 

魂たちの話が終わると神様が話しました。

「ではお前たちの純粋な思いを叶えるために必要なものを授けよう。

この上ない美しさを届けるために、お前には繊細に音を聞きわける耳としなやかな指を。

静けさをもたらし調和と平和を創造するために、お前には瞑想をしている両親と動物や植物を愛するこころを。

そして、愛という滋養を与え、豊かさと幸福をもたらすために、お前には多くの人を受け入れることが出来る広いこころと活動のための強い肉体を、

それぞれ授けよう」

 

魂たちは、みな自分がどんなこころとからだをもち、どんな両親や環境に生まれるのかを喜びをもって聴いています。

 

そして最後に神様が言いました。

「しかし、私がお前たちに授けるものだけでは、

お前たちは自分の純粋な意思を叶えることはできない。

何故かわかるかね?」

魂たちは、思ってもみなかった神様の言葉に黙ります。

 

しばらくの後、一人の魂が答えます。

「はい、美しさをもたらすためには、醜さがなければなりません。

調和と平和を創造するためには争いがなければなりません。

そして愛という滋養を与えるためには、

それを必要とする人がいなければなりません。」

 

神様が言いました。

「その通りだ。しかし、ここにいるお前たちは皆、ほんとうに美しく、

平和で、そして愛に溢れている。

どうして、それが可能になるのか?」

 

しばらく魂たちは黙っていましたが、やがて一人の魂が答えました。

「私が、地上に降りたら、出来るだけ美しいものを破壊し、調和を乱し、愛のない生活を送ります。

そうすれば、美しい世界を築き、調和を創造し、愛を届けようとする私の兄弟の願いが叶います」

 

「お前はそれでいいのか?」

神様が尋ねます。

「もちろんです。

私は自分の本質があなたの美しさであり、調和であり、そして愛であることを知っています。

たとえ地上に降りてそれを忘れたとしてもです。

ですから、神様、

私にはそのようなこころとからだをください。

でも、一つだけお願いがあります」

 

「それはなんだね?」

「はい、神様にではなく、皆にお願いがあります。

どうか、どんなに私が地上の美しさを破壊し、平和を乱し、そして愛のない生き方をしても、私のことを心の底から憎まないで下さい。

私は皆を愛しています。

たとえどんな私であってもです」

 

魂たちは全員約束をしました。

決して、その魂のことを心の底から憎まないと。

 

神様が言いました。

「よろしい。ではお前の望み通りにしてあげよう。では、お前の純粋な思いを言いなさい」

「はい、私の思いは、すべてを受け入れ、赦しを与え、無限の可能性を引き出し

豊かさと発展をもたらす、です」

 

神様は頷きました。

「よろしい。

どんなに非難されようともそれを受け入れ、すべての者がお前によって赦される強靭な意志と、

どんなことも可能だということを示すからだを与えよう」

 

魂は神様の計らいに深く感謝しました。

 

今、大勢の魂たちが地上にいて、皆自分の純粋な思いを叶えようとしています。

この地上に生きている人のすべての魂は、完全に純粋です。

たとえ悪と呼ばれる行いをしている人もです。

 

~~~引用ここまで~~~

 

読み返すたびに「私の純粋な思い」は!? と鳥肌の立つ思いがする。

純粋な思いをどこまで実践できているのか、と問われているのだ。

 

同時にこんな言葉が脳裏に浮かんだ。

 

この世の全てのことは、二つに分類される

愛に基づくものか、

愛を求めるものか。  

 

誰の本だったのだろう。忘れてしまったのだが。。

 

私たちの、愛を実践したいという望みを叶えるために、

同朋の誰かが、愛を求めて叫ぶ役目を

負ってくれている。

 

救いようのない暴力や殺戮の嵐が、世界中に溢れている。

「私を愛して」「お願い、誰か愛して」

悲鳴のような哀訴の声。

「誰か私を愛して」

それは、私たちが生まれてくる前の、

こんな風な神様の計らいによるものだろう。

 

そうと知ったからといって、悲しみが癒えるものではないが。

喪失感が消えるものでもないが。

一筋の光明であるのは確かだ。

 

全ての魂の同胞に。

幸あれ。

心静かに平和であれ。

光あれ。

 

Love

 

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コーヒー離脱後15か月を過ぎて

 

 

コーヒー離脱後15か月を過ぎて

(2017年8月16日の記録)

 

かれこれ10か月前(離脱後5か月)に、次のように記した。

 

~~引用ここから~~

 

厳しい離脱症状(禁断症状)のなかで、以下のようなことを考えた。

 

コーヒーをやめると、いいことがたくさんあります

白髪が減り、しわ、しみ、たるみが減少し、肌はしっとり透明感が戻り、

皮膚は白く、唇や頬はバラ色に、

身体はしつこい疲労感から解放され、ぐっすり眠れるようになり、

精神は安定し、静寂と平安の中にいられるようになり、

いつも機嫌よく、

瞑想(TM)はものすご~く深くできるようになり、直観力がさえわたる。

~~引用ここまで~~

 

珈琲なくしてなんの人生ぞ!

というほどのコーヒー愛の人だったが、

離脱を決心した直接のきっかけは、昨年5月から開始した瞑想(TM)を

さらに深く実践したかったから。

なのだが。

 

瞑想開始後10日目くらいに、瞑想の先生から、

「コーヒーを飲んでいるとそれ以上瞑想は深くなりません」と言われたの。。。

しかしそれだけでは、なんとなくつまらないというか、物足りないというか、

いや、実は瞑想が深くなるだけでもう充分なのだが、

激烈な離脱症状に耐え最後まで戦い抜くためにも、

もう少し何かあるとすごくうれしいはず!と思ったので、

上記(いわゆる現世利益の追求ですね)を励みにしようとしたのだった。

 

で、このほど、検証を行うものである。

 

・白髪の減少  恥ずかしながら我慢できなくて染めてしまったので、効果は不明

・しわ、しみ、たるみの減少  しみは変化なし

しわ・たるみは、体重が増加したため改善したので、これが断コーヒーによるものかは不明

・肌のしっとり感透明感  特に変化なし

・美白度  変化なし

・血行改善(唇・頬の色味)計測不能(気分、表情で異なるため)

・疲労感  激減!!

・熟睡度   コーヒーやめる前とは段違いにアップ。しかし、10か月前(離脱後5か月)より向上しているかどうかは不明

・精神安定度 コーヒー飲用時を20とすると10か月前は50くらい。現在は80くらい 素晴らしっ

・静寂と平安 いい感じに落ち着いている

・機嫌の良さ もはや以前のように意味もなく不機嫌ということはない

・瞑想は深くなったか   測定困難。しかし、日々深化している実感はある。

これが日々の実践によるものなのか、コーヒーを排除したことによるものかは不明

 

以上を総括してみると、美容上の変化は微妙。

というのも顔立ちというものはすなわち表情がほとんどであって、

それはその日の体調や気分に非常に影響されるものであるので、効果測定が困難だから。

ただし、別人のように美しくならなかったことだけは確か。

(いやいやいやお恥ずかしい。何を期待していたのか意味不明。)

 

健康上の変化も微妙。

体調は明らかに向上したのだが。断コーヒーによるものかは不明。

なぜならば、コーヒーをやめるとほぼ同時期にアーユルヴェーダ(インド式医学)の食生活に変えたために、

それまで10年以上断っていた牛乳を飲むようになったり、

きのこ類をやめたり、

玄米を白米に変えたり、いろいろ変更があったために、

この体調の良さが、どのくらいコーヒーをやめたことと

因果関係があるのかはわからない

 

しかし、総じて、副次的効果かも知れないにしても、

眠りが深くなったことと、気分が安定してることで得られたものは

無限大である。

 

いうなれば、走るために目の前にぶら下げたニンジン(現世利益、美容目的。白髪に効くとか、美白とかしみしわの減少など)などもはや問題ではないくらいに、

熟睡できるようになったことの効果は果てしなく、

美容は全く二の次と言えるくらいに

精神が安定して、こころの成長著しいものがあったのだ(と思いたい)

 

眠りが深くなったことに関してだが、思い起こせば、瞑想を始めた理由の中に

「睡眠時間を減らせる」

というものがあって、すなわち、

瞑想によって心身のストレスが解消される結果、睡眠も短くて済むようになるし、

その分ぐっすりと眠れるようになるというものである。

 

はて、

 

ぐっすり眠れるようにはなったのだが、時間短縮には至ってない。

瞑想の教師に質問したところ、

「まだ疲れが取れてないというか、根深いストレスが解消されてないからかもしれません。

眠りたいときは眠るのがよいのです。

疲れてるときは休むのがよいのです。

疲れとかストレスから回復したら、もしかしたら短時間睡眠というような希望が叶うかもしれません、、、

でも、別にわざわざ時間短縮を目指さなくても よいのではないですか」

 

うーん。

 

そうかも。

 

いや、そうでないかも。

短時間睡眠を望んでいるというよりは、

時間を有効に使いたい、という目的があって、

そのためには一日のうちの7時間なり8時間を睡眠にあてるよりも

これが5、6時間ですむようになるなら、とてもうれしいことではないか。

 

起きている時間が2、3時間増えることによって、

その時間を例えば読書とか或いは仕事でもよいが、

他のことに使うことが出来る。

 

が、しかし、

気持ちの良い深い睡眠と交換できるどんな読書があるというのだろうか。

読みたい本を全部読了するのがそもそも不可能な話であるのならば、

数パーセント余分に読めたからといって、達成感はあるだろうが、

良質な睡眠と引き換えにできるほどのものなのか。

 

仕事も同様である。

 

緊急事態に対応する時を除けば、

数時間或いは数日、早く納品できてもできなくても

大勢に影響はないのではないか?

 

そして気付いたのだが、

かつては(珈琲やめる前)一日にいかにたくさんのタスクを詰め込むかに情熱を燃やしていたのに、

いまや、そんなことはどうでもよいのだ。

 

そんなことよりも、  ぐっすり眠ることの方がはるかに重要である、

とさらっと言える自分に生まれ変わっていた!

 

なんと、まあ!

 

人生はどう転ぶかわからない

人生、love。珈琲もlove。loveだよっ!!

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